コレでようやくマトモなステレオ盤になりました。
The Beatles『Help!』
今更ながら、ビートルズの歴史とかを云々するつもりは毛頭ありませんし、そう言う事には全く疎いです。
ビートルズは、アルバムを聴く。という付き合い方しかしてませんね。
というか、ほとんどのミュージシャンに、私はそうやって接してますね。
2009年にジョージ・マーティンがビートルズの全アルバムのリマスターを見直して、新しいデジタルリマスター版を出した時は、本当に良かったです。
というのも、最初のCDは全体的に音に立体感に欠けていて、なんだか薄っぺらい音なんですよね。
まあ、昔のロックだからこんなもんなのかな。と思い込んでましたけども、このリマスター版は、音の立体感がグッと出てきて、音がとても力強くなりました。
ステレオ版のビートルズはレコードでは大変批判があったようですけども(左右に振り分けただけみたいな無茶な作りでした・笑)、このリマスター版でようやく一応のスタンダードができたのではないでしょうか。
さて、本作を聴いてハッキリわかるのは、もう、勢いでだけでアルバム作りたくなくなって来ているという事でしょうね。
これまでは、レノンとジョージがギター、ポールがベイス、リンゴがドラムという担当は基本変えず、コレに時折ジョージ・マーティンのピアノが入ったりという、とてもシンプルな編成で演奏していました。
しかし、本作は明らかに楽器が増えています。
しかも、楽器をかけもちし始めて、いろいろと音楽をいじりたくなってきています。
それが劇的な効果を示すほどではまだないんですけども、スタジオでジックリと時間をかけてアルバムを制作したい欲求が生まれ始めていながらも、まだ、この頃はそんなに時間が与えられていなかったんですね。
アルバムの制作ペースが今と比べるとものすごく早いんですよね。
まだ、音楽産業が出来上がってない事が原因なのでしょう、彼らですら自転車操業なんですね。
ライヴをやって稼がないといけなかったんでしょう。
そういうかなりキツい状況で作っている割には、相変わらず名曲、名演を繰り出すのが、このバンドすごさなわけですけども、そういうニッチな制作のあり方に、具体的な行動反抗をで示しているのが、さすがという他ありませんね。
私は、ビートルズはむしろ若い人たちに聴いてもらいたいと思ってますので、背伸びをしてモノラルのアナログ盤買わずに、現在流通しているCDを聴く事をまずはオススメいたします。
それからでもモノBox(CDはかなり安く入手できますが)、アナログ盤を買っても全く遅くないです。
モノラルのLPは、ホントに高いですよ(笑)。
裕福な方はご自由に(笑)。
とにかく「いいアルバム」としか言いようがない。
Donald Fagen『Nightfly』
こう政治家の傍若無人を毎日見れられると、ココロが荒んでくるんですけども(政治家の皆さま、ホントに大変だと思いますよ)、そんな皆さまのココロのオエイシスになる事必定の音楽が本作でございます。
スティーリー・ダンの片割れが作ったソロ作ですけども、一説によると、最も制作費がかかったアルバムとかなんとか言われてますが、私は特に調べる根気はないので各人でやってくだい(笑)。
『ガウチョ』で洗練の極致になってしまい、どうにもならなくなって、一旦、そのソングライターユニット(すでにバンドですらなくなっていました)は解散するんですが、案外、早いことソロ作が出ました。
相変わらず、とてつもないメンツを集めた贅沢な作品なのですけども、実際の作品は、『ガウチョ』が行き過ぎてしまった世界をうまく脱却した、リラックスした、いい感じの作品でした。
この、散々カネと時間をかけていい感じの作品を作る。というのは、フェイゲンの一貫した哲学なのでしょう。
大瀧詠一がこれまた行き着くところに行き着いてしまった『each time』以降、一切アルバムを発表せずに亡くなってしまったのは、自分へのハードルが余りにも高すぎたからなのでしょうね。。
フェイゲンは、いい意味で開き直って、あっけらかんと作ったのが、本作の素晴らしいところなのだと思います。
コレができたから、スティーリーダンは再結成し、ソロ作も出し続けるという事が出来たのではないでしょうか。
楽曲もほとんどダンと違わないし別にそんな事どうでもよいハイクオリティだしみたいな図々しさが、ダン名義とソロ名義には未だにあるんですけども(笑)、そういう適当さが(音楽が適当と言ってるんではありませんよ)、仙人のような境地でマイペースに作品を作れるようになれたんでしょうね。
いずれにしても、本作がなかったら、案外、ずっとフェイゲンとベッカーの2人は隠遁生活になっていたのかもしれない、重要作(しかし、リラックスしたいい曲しかない)。
できうれば、アナログ盤をある程度のヴォリュームで聴ける環境で、コーヒーでも飲みながらお聴きくださいませ。
ヒップの極みでございます。
不穏な傑作!
Jazz Dommunisters
『Cupid & Batailles, Dirty Microphone』
うわわわ(笑)。
もうすごいとしか言いようがない。
デビュー作『ドミュニストの誕生』も驚愕の作品ですけども、少し間を置いた本作は、もう全く予想できなかったような作品でありました。
リリックはどれもこれもキワキワすぎて、一切ここには書けませんよ(笑)。
歌舞伎町のケイちゃんと黄金町のカールさんのお話しをラップした「KKKK」、バタイユがリリックを書いたかのような「夜の部分」、60年代の学生運動が盛んだった時代を揶揄するような「反対の賛成」などなど(どこかフェリーニ的です)、リリックの毒々しさがとにかく素晴らしいですね。
コレに対するアーバンでクールネスに満ちたバックトラックの素晴らしさ(大半が菊地の元生徒だそうです)
あまりにも先に進みすぎてしまう強烈な先鋭さが、ほとんどのヒップホップファンをポカン。とさせてしまっているのではないのか?と思われるのですが(リリックに出てくるように、菊地成孔、大谷能生がコンビを組んだ仕事は必ず物議が凄まじく巻き起こります)、とにかく、この賛否両論を巻き起こさざるを得ないエナジーが、なんと、ジャズメンが作り出しているという事実もまた驚愕です。
ヒップホップの作品なのに、どこのコーナーに置いたらいいのかわからない不穏さをたたえた恐るべき傑作。
現在は2 in 1で購入できるので、1950〜60年代のウルフの変遷がよくわかります!
Howlin' Wolf『The Real Folk Blues』『More Folk Blues』(chess)
マディ・ワーターズと並ぶシカゴ・ブルースの巨人。
ものすごい巨漢とダミ声に特徴のあるキャラがとにかく強烈な人でしたが、実はものすごく真面目な人だったみたいです。
本作は、チェスが出していた、まあ、シングルをまとめてアルバムにしましたシリーズなのですが、『More〜』の方が、録音が古いのが適当でよいですね(笑)。
多分、売れ行きが良かったので、じゃあ、昔のやつもまとめて出しちゃおうという、インディーズ・レーベルらしい自転車操業感満点です。
とはいえ、内容はウルフの全盛期を記録しているわけですから、悪いはずなどなく、どちらも素晴らしいです。
しかし、わたしの好みから言いますと、よりワイルドな仕上がりの『More〜』を高く評価します。
ローリング・ストーンズが「ハウリン・ウルフは最高!」みたいな事を言っていて、わざわざロンドンにまで来てもらって、テレビ番組でウルフが歌っているという映像を昔NHKで見た記憶がありまして、観客は10代の女の子ばっかりでとても異様だったのですが(笑)、とにかく、彼らのお陰で、ウルフのイギリスでの知名度は高かったようです。
それはともかく、音域は狭く、ハーモニカのテクニックもそれほどでもない彼が素晴らしいのは、その限られた技巧と表現が的確に結びついているからですよね。
彼のヴォーカルは、余計な事はあんまり言わないというか、そのダミ声でブツリブツリと、魚のアラみたいにブツ切りなんですけども、鍋に入れたらいいダシが猛烈に出てくるというか、そういう味で勝負しているんですよね。
あと、彼にはご存知のように、ヒューバート・サムリンという相棒のギタリストが常にいたというのも、自分の表現したい世界を具体化させるために、よかったのではないでしょうか。
よって、1950〜1960年代前半、つまり、この2枚のアルバムにまたがる録音の頃のウルフはあんまり出来不出来というものがそんなになくて、常にある水準を超えています。
そして、それがありながら、やはり、傑作と言ってよい録音があるわけですね。
そういう所から、彼の仕事の真面目さがすごくよくわかります。
私はその傑作が特に凝縮されているのが、『More〜』なのではないかと思うんです。
演奏はどこか田舎臭くてモタッとしているんですが、ウルフにはこういう演奏の時が合ってると思いますし、ウルフの歌唱もこちらの方が好ましいです。
『The Real〜』は、特に60年代の録音の演奏がキレイすぎるんですね。
バディ・ガイのような凄腕が入って、バックの演奏もとてもうまいんですが、ウルフのヴォーカルまで、なんだか変にキレイなんですね。
なんというか、うまい事作ってやろうという作為を感じてしまいます。
それが60年代のいい録音が助長しますね。
1950年代の録音はチェスもアンマリお金がなかったのでしょう、録音もちょっとよくないんですけども(人工的にエコーをつけたりしてます)、バンド全体が一丸となってウルフのアブナイ世界を表現しているようで、ウルフの綺麗事でない歌いっぷりが素晴らしいんです(一部は、メンフィスのサンレコードでの録音です。要するにエルヴィスが初めて録音したあのレーベルなんですね)。
結局、白人にウケる事でブルースが広まった。という事実があるわけですから、ウルフとしてもこうせざるを得なかった所はあるんでしょうね。。
ともかく、彼のワイルドな世界を味わいたいのなら、是非とも1950年代の録音を聴いてみてくださいね。
ロックにおける贅沢。
Maria Muldaur『Waitress in a Donut Shop』
それにしても参加ミュージシャンの豪華さ!
ベニー・カーター、ハリー・スイーツ・エディスン、レイ・ブラウン、ニック・デカロ、ジェフ・マルダー、エイモス・ギャレット、デイヴィット・グリスマン、ローウェル・ジョージュ、ポール・バターフィールド、デイヴィッド・リンドリ、ジム・ゴードン、リンダ・ロンシュタット、ジェームズ・ブカ、Dr.ジョン.....
もう卒倒しそうなほどのメンバーが参加してますよ(笑)。
曲目もとても変わっていて、ファッツ・ワーラがあるかと思えば、リーバー&ストーラー、アラン・トゥーサンまであるという幅の広さです。
アメリカ音楽の総力が結集した感がありますね。
ザ・バンドやオールマン・ブラザーズの成功は、やはりアメリカのロックシーンに影響を与えたらしく(その先駆として60年代終わり頃にシングルヒットを連発しまくったCCRがありましたね)、60年代はビートルズ、ストーンズといったイギリスのロック勢力にかなり押され気味であったアメリカのロックも(何しろ、ジミ・ヘンドリクスもブレイクしたのは、イギリスのロックバンドとしてです)、自分の足元を見つめ、その良さを示すことで、本家本元である事を示すという事にようやく気がついたんでしょうね。
マリア・マルダーのソロ第1作目から「Midnight in Oasis」がヒットした事で(エイモス・ギャレットの素晴らしいギターソロでも有名です)、制作費がダンマリ確保できたのでしょうか、曲によってはジャズのビックバンドやストリングスまで盛大についた、しかし、40分に満たないというなんとも贅沢な作品となりました。
こういう豪勢さは、後にスティーリー・ダン〜ドナルド・フェイゲンによって更にエスカレートしていくんですけども、その話は置いておきまして、当時はレコードがよく売れてましたから、バカ売れするとは思えないような本作のようなアルバムにもこんな凄腕ばかりが注ぎ込まれたのでしょう。
このアイディアは、プロデューサーのレニー・ワロンカーのものなんでしょうかね。
レニーはライ・クーダー、リトル・フィート、ランディ・ニューマンのアルバムのプロデューサーでもありますから、その可能性がありますね。
それにしても、これだけいろんな音楽を一枚のアルバムにも放り込んでも、マリア・マルダーはすべて余裕でも歌いこなしてしまうところが、すごいです。
個人的には、Sqeeze Me、I'm A Woman、Oh Papaがよかったです。
Oh Papaでは、エイモス・ギャレットとしか言いようのない、夜空を漂うような美しいギターがやはり素晴らしいですね。
Sweetheart、Honey Babe Bluesは悪くないんですが、それぞれダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックス、ライ・クーダーのバージョンの方が素晴らしいと思います。
マリア・マルダーは、やはり70年代が素晴らしく、彼女を語る上では前作と本作は絶対に聴き逃す事のできない贅沢な傑作です。
追悼クリス・コーネル。。
Soundgarden『down on the upside』
なんとなく「お別れ感」があるジャケットではあります。
クリス・コーネルが突然亡くなったのは、ホントに驚きました。
もうロックはほとんど関心の中心ではないので、サウンドガーデンが再結成していた事すら知らなかったのですが、90年代では好きなロックバンドの1つでした。
本作は一度解散する前に発表された作品で、当時はよく聴きました。
私、レインボーがとても苦手なのですが(あの粘っこい歌唱が苦手なんです)、クリス・コーネルの歌唱はなぜかとても好きでした。
基本はレッド・ツェッペリン直伝の歌唱法だと思うんですけども、それが好きな原因かもしれません。
ホントに久しぶりに取り出して聴いたんですけども、あんまり古臭く感じないですね。
キム・セイルのギターがめちゃくちゃうまいです。
90年代のロックではトップクラスでしょうね。
そんなにド派手な感じはしませんけども、非常にツボを押さえたギタープレイが信条の人で、うまいぞどうだどうだと弾きまくらないところがいいですね(この頃のロックはギターソロが長くないんですけども)。
オルタナの中では珍しいくらいにレッド・ツェッペリンへの傾倒をハッキリ見せていたバンドでしたが、その集大成的な意味がある、完成度がとても高い作品です。
が、このころのロックアルバムの欠点として、曲数が多すぎてややシンドイところがあります。
1~6曲目までは文句のつけようのない見事な完成度ですけども、それ以降がだんだん冗長になってきますね。
私はこのアルバムは10曲くらいにすればもっと素晴らしかったのではないのかと思いますね。
90年代組のバンドが比較的短命なのは、アルバムに曲を詰め込みすぎたからなのではないのかと思うくらいです。
サウンドガーデンもそういう中での犠牲者かもしれません。
名曲ばかりが60分以上も入ったロックアルバムなんてものを何枚も作るというのは、ちょっとおかしいのではないか。
60分といったら、もうLPだったら二枚組です。
二枚組アルバムを全面丹念に聴きまくるという事はクラシックでもない限り、私はあんまりしないのは、やはり、聴いていてシンドイのですね。
ロックアルバムは40分程度で充分だと思います。
90年代は、レコードが壊滅的な状況でどのジャンルもCDでのみ発売されていましたから、もう、どれもこれも長くて長くて(笑)。
最近、90年代の様々なジャンルのアルバムがLPで再発するんですけども、みんな二枚組ですよ。
いかに聴き手の生理感覚を無視してCDアルバムが作られていたのかが、実にわかりますね。
というか、結局、CDというフォーマットに見合った音楽というものを果たして作り出せたのだろうか?というのがかなり疑問ですね。
それができる前に日本以外ではCDは壊滅状態なのですけども(海外のミュージシャンが日本にタワーレコードがある事をホントに喜んでいるらしいですね)、もうちょっとそこを考える時間があったらよかったなあ。と真底思うんですね。
と、かなり話しが脱線いたしましたが、日本では、こういう正調ロックがあまりウケない時代だったのか人気が今一つですが、これだけの実力者を聴き漏らすのは余りにも勿体無いと思います。
私は後半の曲をかなりカットして40分に短縮したバージョンで聴いてます。
クリス・コーネルさん、素晴らしい音楽をありがとう。合掌。
快楽的アルバム。
Taj Mahal『Music Fuh Ya'』
ああなんて気持ちがいいんだろう。以上感想終わり。
実はコレしかないのである(笑)。
ムガル朝の皇帝が亡き妻のために作った壮麗な廟を芸名にするという、なんとも人を食ったミュージシャン(日本で言ったら、「大阪城」とか「首里城」というブルースメンです。と言ってるようなものですからね・笑)ですが、その出てくる音楽はただただ気持ちいいぐらいしか私には浮かばないのである。
スティール・ギターを抱えてダミ声で歌っているので、一応、ブルーマンではあるんでしょう。
でも、このアルバムは、ブルースというものが南国の太陽によって溶けてしまって、何か違うものが立ち上ってきて、聴き手の耳をマッサージしてくると言いますか。
その南国感は、スティール・ドラムが入っている事によりますが、そこにあの能天気なタージュ・マハルのダミ声が絡むと、全身の筋肉が緩みますね。
音楽にはいろんな事を考えされられる音楽とそういうものを放棄させてしまう音楽があると思うのですが、後者の中で本作は相当な上位にあると思います。
南国への憧れというか、そういうもの自体はアメリカには結構前からあったわけですが、そういうものがロックとかブルースと呼ばれる領域でもやがて表面化してきて、タージュと短期間ですけども、一緒に音楽活動をしていたライ・クーダーなんかも早くからハワイとかメキシコのミュージシャンと共演して、独特な世界を作っていたんですけども、ライの音楽はもうちょっといろんな事が分析的に言えるし、そういう文章はいろんな人が書いているのではないでしょうか。
しかし、彼のことを論じた文章に出くわすことってそんなにないです。
タージュ・マハルには分析する事を放棄させる秘密の香辛料が音楽の中に内蔵しているのかもしれません。
さて我が国にも、70年代に南国の楽園を妄想していた天才がおりました。
ご存知細野晴臣です。
彼の分析などそれこそ腐るほどありますし、首相じゃありませんが、文献を読んでいただきまして(笑)、ココでは本作との兼ね合いで述べていきたいのですが、細野晴臣の妄想は相当な学習の末にアタマの中がパンパンになってしまってもう音楽でやるしかない。というものが漲っていますけども(とはいえ、外観上は彼らしくとても達観してますけども)、タージュはホントにそういう切迫感もないのではないでしょうか(笑)。
あの飄々としたまんま、適宜ミュージシャンを選んで、パッと作ってしまっているというか。
これほどブルース出自のアフリカ系アメリカ人でこんなにあっけらかんとした音楽を作った人はいないのではないのか。というくらいにブラックミュージックの苦悩から遠い音楽に見えます。
細野晴臣は、「日本人がアメリカの音楽に憧れてやっているだけだから、私たちはからっぽなんだ。でもそれでいいんだ」という発言をテレビでしてますけども、そう考えると、タージュ・マハルのあまりの楽しさというのは、全く意味が違っています。
しかし、南国志向で快楽的でユートピアックである点は両者は同じです。
本作の最後は、なんと、「curry」を連呼するだけのファンクというのか、人力テクノというのかわからんような曲なのでけども(笑)、コレって後一歩進んだらYMO日本人がなったかも。とフト妄想してしまうのですが(全体的にシンプルな繰り返しが多いですよね。ユルユルですけども、チャンとブラックミュージックの構造です)。
しかし、実際の彼は南国であるハワイに移住して、マイペースに現在でも音楽活動をしているわけですけども、彼の南国志向は、ホントに住む。というなんとも呆気なく実現させてしまうところが彼を分析する事などバカバカしくてやってられなくなる原因でしょう(笑)。
これに対して、細野晴臣はあのYMOを結成して、いろんな民族音楽の分析をコンピュータを使ってやるという事になっていきます。
両者の優劣とかそういう事がモンダイなのではなくて、こういう快楽的な音楽というのは、どうも見落とされる気がしてならないので、何か少しでも言える事がないのだろうか。と思って書いてみました。
もうちょっと難しい事を言わせてもらうと、彼を通して中南米音楽とアメリカの音楽は切り離して考えるべきではないという、よく考えると当たり前の見落としている事がわかってきたりしますよね。
でなければ、キップ・ハンラハンが自分の作品に彼をゲストに呼ぶなどという事が起こるとは到底思えないです。
快楽的ではありますが、実は意外と深い作品である(笑)という事を指摘しておいて、本稿を終わります。