混血と雑食がアメリカの強みでした。
Joe Bataan
『Afropofilipino』
(salsoul)
ジョー・バターンの全盛期を代表する1枚。
A面はニューヨークで活躍するスタジオミュージシャンが一同に会しての録音で、B面はややメンバーは地味とはいえ、西海岸らしいユルさが汪溢する、ロサンジェレスでの録音。
これから数年後、山下達郎のソロデビュー作も、A面ニューヨーク、B面ロサンジェレスの録音でしたが、コレにさきがけて(?)の録音という事になります。
まあ、どうしてもA面の豪勢さに目を魅かれますけども、B面も出来は悪くなくて、オルガンやコンガがめちゃくちゃ気持ちよくて、私はとても好きですね。
A面はいつものバターンにめちゃくちゃ腕っこきのミュージシャンがバッチリついていて、アレンジも完璧という、もう言うことなしの70年代ど真ん中サウンドですけども、バターンはもう少しユルい方が良い気もします。
非常によくできた、重心がシッカリとしたファンクであり、その反面、ラテンがやや後退します(このメンツだと必然的にそうならざるをえませんね)。
ラテン音楽なのに、ソウルフルに歌い上げる。ということを「サルソウル」と名づけるセンスが素晴らしいバターンですけども、サンタナとはまた違ったラテン音楽と北米音楽の融合を、東西で成し遂げた、いわば、アレキサンドロス大王的な名作。
残念ながら、CD、LPともに入手困難ですが、比較的安価に中古LPが店頭では入手可能です。
ネットだと少々お高くなってしまいますね。。
バターンは根強い人気があるので、再発されるのを待つのもよいでしょうし、こういう音楽を聴かせてくれるお店でリクエストして見ると、マニアックな店長にジョー・バターンの事をコッテリと教えてもらえると思いますよ。
和みの傑作。というのはあるのですね。
John Sebastian
『Tarzana Kid』
ラヴィン・スプーンフルを呆気なく脱退してしまったジョン・セバスチャンの1974年のソロ作。
オッ、すごいマンドリンがうまいなあ。と思ってパーソネルを見てみたら、ライ・クーダー(笑)。
そりゃうまいわけですが、この作品、とにかくメンバーが異様に豪華です。
というか、70年代のアメリカのロックって、こういう作り方が案外普通で、あるミュージシャンが一応リーダーとして顔は出ているんですけども、そこに友人のミュージシャンをゴソッと参加して、みんなでいい仕事をしようみたいなやり方がとても多い。
ココに、参加しているミュージシャンを羅列してみますと、
ローウェル・ジョージュ、ライ・クーダー、エイモス・ギャレット、デイヴィッド・グリスマン、デイヴィッド・リンドリー、エミルー・ハリス、ケニー・オルトマン、ジム・ゴードン
となりまして、まさに、70年代の西海岸を代表する人々が集結しておりますね。
一人ひとりが何者なのかを説明していると、もう、アメリカロック史になりますから、一切割愛しますけど(それだけすごい人が集まっているという事ですね・笑)、こういった人々を起用できてしまう、当時の西海岸のロックの独特の緩い連帯感が私はたまらなく好きで、ロックはほとんど聴かなくなった今でもこの辺のロックはついつい手がでます。
セバスチャンのやっている事は、ある意味、スプーンフルから一貫していて、ラヴリーな楽曲をマイペースに歌い上げるということに終始しているわけですが、フォーク、カントリー、ブルースなどをほのぼのとした感性でミクスチャーする才能は見事ですよね。
クリフ・リチャード「スィティンギン・リンボウ」、「リトル・フィート「ディクシ・チキン」と言ったカヴァー曲とセバスチャンのオリジナルが溶け合っているようで、こういう才能はライ・クーダーと互角だと思うんですが、セバスチャンは今ひとつキチンと評価されていない気がします。
まあ、そういう慎ましいところがまたセバスチャンの魅力ではあるのですが。
ほのぼのとした凄み。というのは、あり得ませんし(笑)。
全体として、「もう1つのありえたかもしれないリトル・フィート」には聴こえますね。
よって、リトル・フィートが好きな人にはたまらないと思います。
70年代の西海岸が生み出した、一服の清涼剤。大名作。
この地味なジャケットからは想像もつかない滋味が溢れる名盤です。
Led Zeppelinは誰がなんと言おうとロックンローラーなのね。
Led Zeppelin『Presence』
もはや説明不要の4人。わからない人はグーグルで調べてね。
名曲「アキレス最後の戦い」の入ったZeppの後期のアルバム。
この伝説的なバンドはもう腐るほど論じられているので、今更、新しい事実などないと思いますが、私がこのバンドに感じている事をつれづれなるままに書いてみましょう。
ハッキリ言って、Zeppには、1枚も名盤と呼べるアルバムはないと思う。
というのも、彼らのアルバムはとにかくすごい曲と捨て曲の差がありすぎる。
衝撃度では最初の2枚のアルバムが1番すさまじいですけども、特に2枚目は両面の一曲目以外は聴けたものではない。
最も売れた4枚目はA面の最初の2曲「Black Dog」「Rock and Roll」が彼らのベスト5に確実に入る名曲ですが、大変有名な「Stairway to Heaven」は今聴くと、ダサい!
そんなもんはイーグルスがやればいいだろう!と言いたくなるのですね。
泣ける大曲だったら、デレク&ザ・ドミノウズの「Layla」やメタリカの「One」の方が男泣きではないですか。
というか、みなさんは、Zeppに男泣きを求めてるのですか?と。
私にとってのZeppは、あのジミー・ペイジのギターリフと何を叩いても「ドスドス」という音がするジョン・ボーナムによって繰り広げられる、あのロックンロールなのであります。
それにひきかえ、彼らのブルースはホントにヒドい。。
同時代のFreeやFleetwood Macの初期の演奏と比べたら、それは明々白々であって、彼らはブルース・ロックとしては三流だと思う。
かなり暴力的な曲であるDazed and Comfusedは、ジョン・ポール・ジョーンズのベイスリフがカッコいいので、コレは例外的に名曲。
ようするに、Zeppのアルバムはいろんな要素がごっちゃに入ってしまっていて、めちゃくちゃなのですね。
しかし、本作はそのめちゃくちゃがないだ。
冒頭の「アキレス最後の戦い」は、ギターリフが曲の後半にならないと出てこないのに名曲という、よく考えると、彼らとしてはかなり異色な曲ですが、もうボーナムのリードドラムに、珍しく歌い上げるロバート・プラントが絶妙で、とてもシンプルなペイジのバッキングが妙にカッコいい。
さすが、スタジオ・ミュージシャンとして、腕を鳴らした人であります。
いつもなら、ここから捨て曲が始まるんですが(笑)、本作はここからとてもシンプルなロックンロール曲が続いて終わるんですよ。
地味な曲で、ほとんど話題にも上がらないと思いますが、一切余計な事をしていないだけに彼らのロックンローラーとしての地力がハッキリとわかるんですね。
B面の「Candy Store Rock」、「Hots on for Nowhere」なんて、ライヴで取り上げられたことなんて一度もないでしょうけども、先ほどと同じことが言えるんですよ。
ようするにこのアルバム、とても一貫性があって、しかも、私の好きなロックンローラーとしてのZeppと「アキレス最後の戦い」というご馳走がついているんですよ。
そういう意味で、私は本作がZeppで最も完成度が高いアルバムだと思っているんですね。
しかし、このアルバムも、名盤とはまだ言い難いのです。
それは、B面の一曲目「俺の罪」の出だしのアレンジが少しアホっぽいのがズッコケるのと、B面最後にまたしてもやらかしている、ヘタクソなブルースがかなり減点となり、名盤とは言えないのですね。
とはいえ、完成度から言ったら、Zeppで最高です。
しかし、最高傑作。という言葉がどうしても出ないのは、最初の4枚目に入っているロック史に残る衝撃的な曲を差し置いて、コレが最高なんだ。というのは、いくらなんでもムリがありますよね。
よってこの文章は最初に書いた事に戻るわけです。
Led Zeppelinには名盤はないのだと。
彼らはものすごく変わった曲を驚異的なテクニックとスタジオワークを駆使して提供してくれるバンドであって、その本質はロックンローラーなのです。
ヒプノシス制作のジャケットも秀逸。
意外と聞き応えありますぞ。
Japan『Tin Drum』
邦題は直訳の『ブリキの太鼓』ですけども、フォルカー・シューレンドルフの映画(原作はギュンター・グラス)を表現したのではなくて、共産趣味とファンクネスと東洋へのエキゾを融合するという、他に類例をみない自閉的妄想音楽となっております。
今となっては元Japanのヴォーカルであった痕跡など微塵もなくなってしまいましたが、この頃の歌い方は、日本のヴィジュアル系バンドに未だに影響を与えていますよね。
近年のシルヴィアン。孤高のミュージシャンである。
日本でのジャパン受容には、間違いなくそういう側面がありました(当人たちがそれをどう思っているのかはよく知りませんが)。
では、ヴィジュアル・イメージ先行のハッタリ音楽なのかというと、実はさにあらずで、音楽の志はとても高いです。
曲のタイトルから中国や東南アジアなどへの憧憬を感じますが、それはほぼリーダーである、ディヴィッド・シルヴィアンの妄想だと思います。
別に理論的に詳しく調べた事をやっているという感じではなくて、あくまでも、シルヴィアンのアタマにある「アジア」や「アフリカ」なのでしょう。
ある種のエキゾチズムなのだと思いますけども、そういう部分が不思議とYMOとも親和性があるのが驚きです。
ジャパンのメンバーは、その後、坂本龍一や高橋幸宏と音楽活動を共にする事が度々ありますね。
細野晴臣がYMOを結成するにあたって、自分の音楽的ルーツを考え直したそうですが、日本人がアメリカ音楽に憧れて音楽活動しているだけで、実はそこに何もない、空っぽだ。と思ったのだそうです。
そして、そういう何もない薄っぺらな存在が日本人なのだ。という事を表現しようとしたのがYMOだったそうです、、
凄まじい達観ですが、シルヴィアンが何を考えてもこのような音楽を作り上げたのかは私はわかりませんが、この、キーボードを多用した意図的な薄っぺらい音作りは、何が細野の考え方と共振するところがないではないですね。
この上ない空虚さを埋めあわせようとするシルヴィアンの自閉的な妄想と韜晦感は、ジャパン独特の美学を作り上げているように思えます。
ジャコ・パストリアスのベイス奏法をロックの中でいち早く取り込んで自分のモノとしているミック・カーンのベイスは、やはり特筆すべきものです。
本作をもって呆気なく解散してしまいましたが、これだけの作品を最後に残したのですから、彼らには何の悔いもなかったでしょう。
アンディ・ウォーホルへの憧れもありそうですよね。
このバンドはもっと活動して欲しかったなあ。。
Lovin' Spoonful『Daydream』
タイトル曲はバンド名を知らなくても一度は聴いたことがあるほどの名曲。
それしても、これほど短命に終わってしまった事が惜しまれるバンドもないですね。
原因が麻薬がらみであった事がホントに残念です。。
ラヴィン・スプンフルには、ドリーミンでキュートなジョン・セバスチャンの楽曲が揃っていて、それは他に類を見ないオリジナリティがありました。
そのキュートさドリーミンにおいては、ビートルズすらしのいでいたのではないでしょうか。
だからこそ、彼らの解散は惜しい。
ジョン・セバスチャンのピースフルでユーモラスなヴォーカル、ザル・ヤノフスキーのザクッとした切れ味のギターの対比が誠に絶妙で、ロック史上に残るコンビネーションだったというのは決して大げさではないです。
どこか達観したような肩肘張らない彼らの演奏は、かなり異色ですよね。
彼らのポップは才能はNRBQが引き継いでくれましたし、カントリーやブルースの部分はCCRが引き継いでくれたと思いますけども、アラ、どっちも略称で知られるバンドですね(笑)。
70年代も活動していたら、CSNなどとも並び称せられるバンドになったに違いないバンドの一瞬の煌めきを是非とも聴いてみてください。
いきなりシベリウスです(笑)。
シベリウス、交響曲第3番
パーヴォ・ベルクルント、ヘルシンキ・フィル(EMI)
シベリウス。実は20世紀の作曲家でした。
シベリウスは90歳を越える長命な人でしたが(第2次世界大戦後まで存命でした)、交響曲は7曲しか作曲しませんでした。
そのシベリウスの才能が発揮された交響曲は、この3番以降という事になるのは、衆目の一致するところだと思います。
彼の作曲で1番有名なのは、「フィンランディア」だろうと思いますが、彼の音楽を知るには、やはり、交響曲を聴くのが手っ取り早いです。
彼の音楽はよく「難解」であると言われるんですが、その原因は演奏に多分にあると思います。
彼の交響曲は意外と全集録音があるんですけども、彼の音楽の真価を伝えるものはとても少ないです。
クラシックを聴くと、有名な指揮者やオケを頼りにCDやレコードを購入してしまいがちですが(ベートーヴェンやモーツァルトはそれでヘタを打つことは少ないですけど)、シベリウスはそういう事は絶対にやめた方がよいでしょう。
シベリウスの音楽は、とても寡黙で繊細です。
腕前のあるオケや一流の指揮者は、どうしてもそこにイロをつけたがります。
彼の交響曲の第1番、第2番はそれでもいいと思いますが、3番以降でやってしまうと、途端に何も語ってはくれなくなります。
その点、ベルクルントは、フィンランドの指揮者で、生涯をシベリウスの研鑽に捧げたような人でしたが、こういう身も心も捧げ切ったような人こそがシベリウスには適任です。
ベルクルント。左利きです。
30分にも満たない曲ですけども(シベリウスの交響曲はどれもそれくらいの長さです)、冒頭から北欧の厳しい自然が広かっていくようで、もうまるで他の演奏とは違います。
オケは絶対に強奏せず、常に全体のバランスが考えられていて、音が溶け合っているようです。
もう、オーケストラというよりも、シベリウスの音楽が目の前で鳴っているという感じて、音が身体に自然と染み込んでいくんですね。
劇的な狙いが一切ないので、そこが物足りなく聴こえるかもしれませんが、繰りかえして、身を浸すように聴いていくと、この表現こそがシベリウスの真骨頂である事がわかってきます。
他の演奏だと、金管がやかましかったり、木管が雑だったり、弦がどやしつけてくるようだったり、無理にドラマティックだったりして、とても不自然です。
ベルクルントは、スルスルッとどこにも鋭角がありません。
そこにあるのは、どこまでも澄み切った北欧の自然の美しさです。
そして、創造主たる神への慎ましい讃歌なのでしょう。
エッ、そんなに呆気なく終わるの?という終わり方ですが、それがシベリウスの魅力です。
喜怒哀楽に直接訴えてくるところが全くないので、そこが「難解」だと思いますけども、そこはトレーニングとして繰り返し聴いてアタマを切り替えていく事で身体がわかってくるでしょう。
そのために最も適しているのが、ベルクルントがヘルシンキ・フィルで録音した全集を買うべきであって他は後からでも間に合います。
ヨーロッパ室内管弦楽団との全集もありますが、迷まずヘルシンキ・フィルにすべきです。
偶々、ココでは3番を取り上げましたが、この説明は彼の3番以降の交響曲全てに言える事であって、3番が1番聴きやすいので、便宜的に取り上げました。
勘違いしていただきたくないのは、3番の内容が薄いという理由ではないのでその点は誤解のないように。
3番が気に入りましたら、6番、5番、4番、7番の順に聴くことで、更にディープに理解度が高まること請け合いです。
70年代ど真ん中!
Rufus featuring
Chaka Khan『Rufusized』
チャカ・カーンの、のびのびとした屈託のないヴォーカルは、明らかに時代が変わったなあ。という事を感じさせますね。
アメリカが暗く沈まざるを得なかったヴェトナム戦争が収束(というか、アメリカがヴェトコンに根を上げたという事ですけど)していく時にこのアルバムが出たというのは、やっぱり大きいですよね。
コレを支えるバンドのメンバーも素晴らしい。
彼女の伸びやかな歌唱にピッタリな軽快さと程よいファンキーさを兼ね備えています。
当時、どういう人々にルーファスが受け入れられていたのかは、よく知らないんですけども、この程よい黒さは、ロックの好きな白人層にも相当ウケたのではないでしょうか。
ギターが相当ロックしてますし、このバンドのまんまブルース・スプリングスティーンが歌ったら、ロックの名盤ができそうです。
アナログ盤全盛期のアメリカのロック/ソウルのど真ん中直球サウンドという事ですね。
私が70年代のアメリカのロック、ソウルで好きなのところは、もう白人と黒人の立て分けが音楽的になくなってきていて、バンドもドンドン人種混成(時には国籍混成もありますね)になっていく所なんですけども、そういう意味でもルーファスはもうど真ん中ですね。
70年代のアメリカのロックやファンク、ソウルを愛好する人で、このアルバムがキライな人は多分皆無でしょう。