往年のヴィルトオーゾが如何に凄かったのか!
ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』、
ヤッシャ・ハイフェッツ、
トスカニーニ/NBC響
斬れぬものなど何1つないような響きをたたえる、恐るべきヴァイオリン!
ハイフェッツの演奏が素晴らしかったので、1940年のトスカニーニ/NBC響との録音も聴いてみたくなり、早速。
かなり若い頃にテクニック面では完成の域に達していましたので、基本的なところは変わりません。
が、ハイフェッツのヴァイオリンの凄味はコッチの方が上です。
とりわけ、第2楽章。
とかく、超絶技巧に耳が行きがちにもなりますが、ハイフェッツの真骨頂は、こういう緩余楽章にこそあるのではないでしょうか。
さりげないポルタメント、感じやすいピアニシモはそのまま演奏が消えてなくなりそうな儚さがあるのですが、決して甘くなることはありません。
心で泣いて、表面はクールを装う美学が溢れております。
単なる技巧派というものを遥かに超越したとてつもない演奏家である事がわかり、録音の古さも気にならなくなります。
トスカニーニはここでは伴奏者としてあくまでもハイフェッツを立てておりますが、それにしても、8Hスタジオのデッドな響きはいささか閉口しますね。。
驚異的な統率力でニューヨーク・フィル、NBC響を鋼鉄のような響きにまで鍛え上げたトスカニーニ。かつてはよくフルトヴェングラーと比較される事が多かったです。
昔出ていたCDでのトスカニーニのNBC響の8Hスタジオの録音のスルメのように乾ききった響きは、到底彼の真価を伝えるものではありませんでした。
しかし、「オーパス蔵」という、状態のよい、SP盤を丁寧にCDに変換する事を得意とするレーベルが出したバージョンは、ハイフェッツの生々しい演奏が見事に蘇っていて、大変オススメです。
このCDはカップリングに1936年に録音された、トスカニーニ/ニューヨーク・フィルによる、ベートーヴェン交響曲第7番という、猛烈な名演が入っているのもお得です。
大変な名盤なのですが、ずっと廃盤です。残念。
Orleans『Orleans』(ABC DUNHILL RECORDS)
初期のメンバー。左から、ランス・ポペン(b,vo)、ウェルズ・ケリー(drms, vo)、ジョン・ホール(g, p, org, drms, vo)、ラリー・ポペン(g, p, org, vo)。
オーリアンズ。と言っても、もうほとんどの方にとっては「そんなバンドあったの?」というくらいの存在になってしまっている気がしますけども、1973年に発売されたデビュー作は、すでにこのバンドがやりたい事が完成されていて、今聴いても大変な名作アルバムだと思います。
この初期の活動はアメリカの一部ではかなりの評価を得たようなのですが、全国的な人気を博するところまでは行かず、ヒットチャートの上位に乗る事はありませんでした。
しかし、ポップ路線に変更した途端にかなりのヒットとなってしまった事で、バンドのリーダーである、ジョン・ホールが脱退してしまいます。
本作は、ジョン・ホールの本来の持ち味というか、このバンドの持ち味が遺憾なく発揮された作品で、初期のスティーリー・ダンやCSN&Y辺りが好みの人には絶対に納得の一枚だと思います。
どこか土臭さのあるジョン・ホールとラリー・ポペンのギターの絶妙な鳴きを入った絡みは、どこか西海岸のロックを思わせますが、実はウッドストックを拠点としたバンドで、たしかにコーラスワークがCSNYとよく似てます。
一部、演奏にも参加している、プロデューサーのバリー・ベケットとロジャー・ホーキンスはマスル・ショールズの凄腕ミュージシャンであり、オーリアンズがかなり期待されていた事がここからもわかります。
全体を通してのファンキーなセンスも見事ですね。
ジョン・ホールとジョアンナ・ホールのソングライティングチームの力は相当なもので、「if」は名曲と言ってよいと思います。
内容は抜群によいので、もっと売れていれば、この路線でやっていけたかもしれませんね。
ちなみに、ジョン・ホールは後に下院議員を務める事になりました。
今聴いても驚異的!
ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』 ヤッシャ・ハイフェッツ、シャルル・ミュンシュ/ボストン交響楽団
10代の頃にはもう天才と言われていました。
ハイフェッツは、ロマノフ朝の滅亡とともにアメリカに亡命し、活躍した。という、20世紀の音楽家の多くがそうならざるを得ず、結果としてアメリカは世界で最も豊潤な音楽を生み出した国の1つとなりましたが、彼はそういう典型でした。
しかし、その演奏は恐るべきものであり、普通の意味の超絶技巧というものを遥かに超越した存在であり、未だに彼を超える人はないのではないでしょうか。
ベートーヴェンが唯一残したヴァイオリン協奏曲を、これほどまでにスイスイと速いテンポで流すように弾きこなし、ベートーヴェンの持つ情念というものを一切削ぎ落としてしまうというあり方は、今聴いてもかなり仰天もの。
それでいて、無内容で無味乾燥ではなく、内実はものすごいものがあるが、それがあんまり情緒的なものとほとんど結びつかないので、とても無愛想で冷酷に聞こえてしまうのですね。
しかし、よくよくフレーズを聴いていると、結構ポルタメントを多用しているし、細かくヴィヴラートがかかっていて、ニュアンスに非常に富んでいますね。
表面上はクールを装った人間離れしたテクニックなのですが、実際はものすごいエモーションを内に秘めているのでしょうね。
この曲は、ベートーヴェンでも屈指の、歌心だけで作曲してしまったような曲なので、タップリ歌った方がいいと思うのですが、そういう事は、ハイフェッツは一切しません。
そういう意味ではベートーヴェンの世界というよりもハイフェッツの世界が前面に展開するのですけども、それもここまで徹底的にやられると認めざるを得ないでしょうね。
また、何風とも言えないヴァイオリンは、安易な情緒に寄り添うような事を良しとしない、彼なりのダンディズムの貫き方なのでしょう。
猛烈なテクニックを持ったピアニストであったホロヴィッツの、自由奔放な感性の赴くままに弾きまくる痛快さとは真逆の世界を生涯追及した人ですね。
そう言えば、ホロヴィッツも亡命ユダヤ系ロシアでアメリカで活躍した人でした。
テクニックは旺盛にあるけども、ここまでの境地に達した人はほとんど皆無であり、真の超絶技巧者というのは、クラシックに於いては、ハイフェッツを言うのでしょう。
1955年の録音ですが、RCAという当時のアメリカでは屈指の録音技術を持つレコード会社の録音ですので、驚くほどいい音で聴くことができます。
思いの外よかったです。
John Lennon
『Rock’N’Roll』
毀誉褒貶の多い人でしたが、風貌もよく変わりました。
ジョン・レノンの事実上の引退作。
よく考えてみたら、ビートルズ解散してからも、結局、年1枚のペースでアルバムを出すという多忙な生活は全く変わっておらず、しかも、彼をカリスマ視するマスコミは、オノ・ヨーコとともに2人を執拗に追い回し(また、物議を醸し出す言動も多かったわけですし)、なんと、FBIにまで危険人物としてマークさてしまうというという日常が続いていたんですね。
しかも、オノ・ヨーコとの夫婦生活もうまくいかなくなり(まあ、どっちも個性的ですので。。)、生活はかなり荒んでいたようです。
そんな中、ロックンローラーとしての自分自身をもう一度見つめ直すために作られたであろう本作は、ビートルズ初期のようながむしゃらなパワーとは違う、もう35歳という、そこそこオジンになったレノンの自然体の良さが素直に出た、とても好感の持てるアルバムとなりました。
フィル・スペクターとの共同作業はあんまりうまくいかなかったみたいですけど(彼も、プロデューサーとしての仕事がかなり減っていて、生活が荒んでました)、出来上がったものは、そういうものが微塵も感じられないです。
ミュージシャンの日常をいくら知ったところで、それが音楽とは必ずしも結びつくわけではないんですね。
ジーン・ヴィンセント、ベン・E・キング、リトル・リチャード、チャック・ベリー、バディ・ホリーの代表曲をひねりなど一切なく歌う。という、ただそれだけで胸を打つというのがなんとも感動的で、改めてジョン・レノンという人を見直しました。
リー・ドーシー「Ya Ya」が嬉しいですね。
こういうアルバムを、大瀧詠一が生前に作って欲しかったなあ。とつくづく思います。
この作品をもって、レノンは、「普通のお父さん」に戻り、育児生活に専念する事になりますね。
まさかのポリリズム童謡!!
キヲク座『色あはせ』
童謡をアレンジして演奏する。という不毛と思われる行為が、そうではない。という事を初めて教えてくれた、驚異の傑作。
キヲク座についての知識はほとんどゼロに等しいのですが、ヴォーカルとパーカションの2人によるユニットらしく、ライヴやスタジオ録音の際にサポーターを加えるという形を取っているようで、このユニットの2人が音楽的なイニシアチブを握っているものと思われます。
西洋音楽にどうやって日本語を乗せるのか。は明治以降の日本の作詞・作曲家の古くて新しい問題ですが(山下達郎もラジオで、「歌詞を英語にしたら簡単にできますよ。英語はノリますから。日本語をどう乗せるのかが難しいわけで」と言ってますね)、4/4拍子に日本語をなんとかかんとか乗せるのではなくて、ポリリズムにしちゃえば、奇数拍子と偶数拍子が同居してんだから、日本語がノリやすかろう。という発想は、ほぼ皆無でした。
コレを実践していたのは、日本では他に菊地成孔氏くらいしか私には思いつきませんが、それをとうとう童謡という分野で成し遂げたのが、キヲク座の最大の功績じゃないでしょうか。
日本の音階は、西アフリカの音楽と似てますから(ペンタトニックですからね)、リズムだってアフリカにしても実は違和感ないのですね。
楽器編成は、ほぼロックだし、音響面はいわゆる「ポスト・ロック」と呼ばれているものに近いと思いますけども、内実は、やはり、リズムの革新であり、構造にメスを入れている事がこのユニットの最大の功績です。
こうする事によって、よく知られている童謡、「待ちぼうけ」「かごめかごめ」などが見違えるように面白い音楽に聴こえてしまうという驚きですね。
まだまだ音楽にはこんな可能性があったのだ。という事を再認識しました。
遺作にして最高傑作の1つ
David Bowie『★』(ISO)
大胆なアートワークの遺作
2016年の1月に亡くなってすぐに発売されたボウイの遺作。
既に死期は悟っていたようで、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティには、その事を告げて制作を進めていたそうです。
別に合わせた訳ではないのでしょうが、アルバム発売の直前に亡くなる。しかも遺したのは傑作。というのは、余りにも劇的すぎて、すぐに受け止めることができませんでした。
ロックを聴くようになって、1番聴きまくったミュージシャンの一人といってよかったボウイは、リアルタイムでは、正直、空回りと凡打ばかりを繰り返していて、もう引退した方が1970年代の偉大な業績に傷をつけずに済むのでは。。と思ってました。
そうこうするうちに、2000年代なはだんだんとジャズにのめりこんでしまってロック自体をほとんど聴かなくなり、ボウイも耳にする事がなくなりました。
しかし、2000年代に入って盟友トニー・ヴィスコンティと再び組み始めて作ったアルバムに復調の兆しがある事はなんとなく知ってはいたのですが、ジャズが面白かったのと、程なくして、ライヴで不調を感じていたら、どうやら心臓に深刻な疾患がある事がわかり、ライヴ活動をやめ、アルバムも出なくなりました。
晩年になってもその眼光は衰える事がありませんでした。
ああ。ボウイは『Ziggy Stardust』や『Young Americans』、『Station to Station』『Heroes』を作った人で終わるんだなあ。残念(コレだけ傑作だ作れたらもう十分ですけど)と思ってました。
しかし、またしてもボウイは『Heroes』のジャケットの真ん中を入れて四角く切り取って「翌日」というタイトルをつけたアルバムを突然作り驚きました。
たしかにボウイの勘が戻り始めていたんですね。
この「翌日」に当たるのが本作というのは、余りにもできすぎています。
それにしても集まってきたのは、マリア・シュナイダー、ドニー・マキャスリン、ベン・モンダー、マーク・ジュリアナです。
現在のジャズの重要人物ばかりですね。
先行シングルを久々に出しまして、これがマリア・シュナイダーとの共作です。
シュナイダーは彼との共同作業はとても刺激的だったらしく、「もう、元に戻れない」とすら語ったそうです。
メンバーは、マリア・シュナイダーの人脈とマーク・ジュリアナと結びつきが強いメンバーが起用されました。
ボウイは1990年代にドラムンベースを使って新機軸を打ち出そうとしたんですが、正直微妙な出来で、私は心意気は買いますけども、失敗だったと思ってます。
自分がイメージしていたものと、出来が相当違ったのではないでしょうか。
そしたら、ドラムンベースを人力で叩き出すとんでもないドラマーの存在をボウイは知ったんですね。
コイツだろうと。コレが彼が求めていたドラマーだったんですね。
現役最高峰のドラマーであろう、マーク・ジュリアナ。
ロック的なイディオムに一切縛られない、しかも、機械のように精密なテクニックを持つサウンドが欲しかったんでしょう。
多分、ここから考えたんですね。
で、トニー・ヴィスコンティのゴージャスなオーケストレーションの部分を更新するために、現在、最も先鋭的な大編成ジャズを追求しているマリア・シュナイダー・オーケストラのメンバーを起用したんでしょう。
このオーケストラのメンバーは、全員がソロで活動していけるほどの腕前を持っている凄腕集団でありますから、統率するはとても大変だと思いますが、シュナイダーの構想をよく理解し、彼女のサウンドを作るのに見事に貢献しています。
ボウイの構想をよく理解し、コレを具現化するだけの技量をもつ連中は彼ら彼女らしかいない。とボウイは読んだんですね。
実際、ジャズっぽさなど本作には微塵も感じず、ボウイの音楽を更新するために起用されていますね。
ボウイは何度も自身のイメージを変えてきていますが、その変えていくための準備はいつも用意周到で、実はとても慎重な人です。
本作も何もかもこれまで培っていたものを捨てて作ったわけではありません。
全体的なコンセプトは、自身の病気と向き合う死のイメージを強調するコンセプトアルバムにしており、それは、まさにあと5年で地球が滅亡するのを救おうとする、かつてのジギー・スターダストのやり方ですね。
自身の死をコンセプトにするアルバムというのも、相当なものですが、それをかけても良いほどに彼の気力は満ちていたのでしょう。
また、前述のように、プロデューサーは長年の盟友である、トニー・ヴィスコンティです。
ドニー・マキャスリン、ベン・モンダーは実に内向的で時に狂おしい演奏でボウイに応えています。
恐るべき才能、ドニー・マキャスリン。
そして、ジュリアナを起用して、ボウイとシュナイダーが作曲しているという、本作で最も過激な挑戦である「Sue」は、かつてドラムンベースを使ってうまくできなかった事がとうとう実現できたとい 凄みが伝わってきます。
ビックバンドを新しい次元に更新した、マリア・シュナイダー。
しかし、全編過激にはせず、ボウイのギター弾き語りをいれたり、これまでのボウイから極端に逸脱したりはしないところが彼のバランス感覚ですね。
いずれにしても、今後、最高傑作の1つに挙げられてもおかしくはないアルバムを最期に遺す事ができたボウイの人生は長くはなかったかもしれませんが、幸福だったと言えるのではないでしょうか。
亡くなる数日後の写真だそうです。RIP
何度も聴きたくなる。
細野晴臣『Vu Já Dé』(speedster records)
中華街でライヴを行う、近年の細野晴臣。
CD1枚に時間的には収まるんですが、敢えて2枚組にしたようです。
1枚目(約25分)は近年の細野晴臣のライヴでのレパートリーであるカヴァー曲が入っていて、2枚目(約28分)は、古いものは80年代の音源から、2017年までのかなり年代にばらつきのあるオリジナルですが、統一感があります。
細野自身がライナーノーツに書いているように、カヴァーとオリジナルが同居できないので、敢えてわけて作ったのだそうです。
無理やりくっつけずに分離したまま提示してしまうというも、なかなか勇気のいる行為です。
どちらも面白く、噛めば噛むほどに味の出てくる作品集(そんな古めかしい言い方が妙にしっくりきます)ですが、私が気になったのは、その録音の仕方です。
技術的な事はよくわかりませんが、かなりユニークな方法をとっていて、それが独特な奥行きとフィクション感を高めます。
ある楽器の音はワザとこもったような音にしたり、別な楽器はクリアに録って背後に聞こえるようにしたりと、「虚構のリアリティ」にものすごくこだわっています。
もともと彼は、南国への憧れとか妄想が音楽を作っていく原動力の1つになっているように思いますので、その妄想力が音作りにも注がれているのでしょうね。
彼はよく自身のラジオ番組で、「最近の録音はなんであんなに音圧が高いの?耳を刺激しすぎたよね」という趣旨の事をしばしば言ってますが(と同時にモノラル録音におけるものすごい工夫に感心しています)、そういう昨今の高血圧としか言いようのないゴリゴリのサウンド(特にアメリカの録音がものすごい気がしますが)へのアンチテーゼを提示しているものと思います。
刺激を与えるのではなく、まるで耳をマッサージするように作られた演奏は、同時に、ユニークな音の操作を行って、不思議な奥行き感を作りだし(この工夫は、ヘッドフォンで聴くとわからないようにしてますね。ワザとだと思います)、聴き手をいい塩梅にトリップさせます。
細野晴臣は若い頃からものすごく老成した人だと思いますが、ようやく外観と内面が一致してきているといいますか、やっている音楽と外観がやっと一致してきたのが、『HoSoNoVa』、『Heavrnly Music』、そして、本作に言えます。
昨今のCDの売り上げを考えると、本作のシッカリとしたアルバムの作りに、作品を世に残していきたい細野の意志を感じます。
全曲素晴らしいですけど、1枚目で気に入ったのは、アルマンド・トロヴァヨーリ作「El Negro Zumbon(Anna)」、2枚目は「洲崎パラダイス」(川島雄三の名作『洲崎パラダイス・赤信号』からインスパイアされたようです)、「Neko Boogie」、「2355氏、帰る」です。