「余談だが」が大好きなのは、司馬遼太郎ですが。
Daryl Hall & John Oates『Private Eyes』
言わずと知れた大ヒットアルバムであり、今更ながら聴いてみると、思ったほど80年代の音ではなくて、70年代の最後の音になっているのに驚く次第。
80年代にヒット曲を連発しているコンビという印象が強かったので、この事は意外でした。
ココから話しは大幅に脱線していくのですが、コレを聴いていてずっと気になって仕方がなかったのが、デイヴィッド・ボウイ『ヤング・アメリカンズ』なのであった。
表面の煌びやかさとプラスチック感、そして、黒人音楽への憧憬という点で実は表層はとてもよく似ている。
しかし、その実、両者の音楽は根本的に違うのだなあ。と思いました。
ホール&オーツの音楽の憧憬には苦悩がない。
憧れがそのまんま音楽になっており、屈託というものが全くない。
この時代のチャートミュージックを熱心に聴いている方ではないので、そんなもん、ポップスなんてそんなもんだろ。と仰るかもしれないが、私はそうでないからこそ、驚いたというか。
ボウイには、屈託があるんですね。
火星から来た。というウソまでついて、アメリカ音楽への憧憬を韜晦させていたんだと思います。
実際はその虚構がもてはやされて、ヤンヤヤンヤの大騒ぎになってしまいましたが。
しかし、『ヤング・アメリカンズ』は、火星に憧憬を仮託する事はできないわけですね。
ボウイは、頭をオレンジに染めて、スーツを着て、ステッキをついてアメリカの聴衆の前に現れました。
なんというか、ピエロっぽいんですよね。
どこか自虐的ですらある。
しかし、バックバンドはアメリカのスゴ腕。
ますます違和感を増幅させているんですね。
そして、ヴェトナム戦争やウォーターゲイト事件に苦悩するアメリカを歌い上げる。
コレはなかなか痛々しいではありませんか。
憧れというものを余りにも屈託なく表現できてしまう、ホール&オーツと、どこか諦念すらあるデイヴィッド・ボウイは、本質的に全く資質が違うことを、改めて聴き直して痛感する次第であり、ボウイが本質的にポップスのスターというものとは、ちょっとズレた所にいる人物である事がみえてくるのであった。
私は、スイートさの中に苦さや辛さがあった方が、音楽は芳醇だと思う方なので、ホール&オーツは、スイーツのようなもので、主食として食い続けるのではなく、時々食べるとちょうどいいモノなのだなあ。と思う次第なのであった。