mclean-chanceの「鯔背でカフェオーレ」

ジャズ以外の音楽について語るブログです。生暖かく見守ってください。

イーノは難しくありません!

Brian Eno『Taking Tiger Mountain(by strategy)』、
『Another Green World』、
『Before and After Science』

 

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若き日のイーノ。現在はアーティストとしても活躍してます。


ブライアン・イーノがイヤなのではなく、彼を取り巻く言説がどうに好きになれない。


イーノはそれこそ、デイヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズU2のアルバム制作に関わっているような人なわけですし、ポピュラー音楽への貢献が何よりも大きい人ですよね。


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いずれもロック史に名を残すアルバムであり、売り上げでも結果を出しているのが、イーノのプロデューサーとしての凄さである。

 


アートスクールに行っていた事は、短期間在籍していた、ロクシー・ミュージックの初期の活動に強烈な個性を与え、脱退後は完全にブライアン・フェリーのバンドに漸次変貌していきました。


とはいえ、多くの人々が惹かれたのは、イーノのそういうポップな側面であり、私もそこが好きなのです。


そことアートな部分と、いわゆる「アンビエント・ミュージック」などを分断して、「アートなイーノ」、「アンビエントなイーノ」のみを強調するのがどうしても飲み込めないんですよ。


多分、イーノにとっては、どちらも同じ地平にあるものだと私には思っていて、その事を1970年代に出されたイーノの3作のソロアルバムを中心に語ってみようというのが本稿です。


まず、イーノという人は、根っからのプロデューサー気質であると思いますね。


それはロキシーにもものすごく感じるんです(ロキシーはバンドですから、フェリーなどの考えも当然反映されてますけども、それでも。という事ですね)。

 

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初期のロキシー・ミュージックの方向性をつけたのは、間違いなくイーノでしょう。


イーノの音楽はとても醒めていますよね。


もう少し難しい言葉を使えば、批評的です。


自分の考え方とかコンセプトがまずあって、それをとても知的に組み立てて作っているんですよね。

 

決して、優れているとは言えないイーノのヴォーカルは、不思議ですけども、彼の作り出すとてもあっているんです。


それは、自分のヴォーカルをどういうサウンドに置くとピッタリくるのかをちゃんと考えているという事です。

 

1960年代の、とりわけ、その前半のロックは、ロックンロールやブルース、R&Bなどをいかにして自分のものにするのか?を演奏面、作曲、編曲で試行錯誤していたように思うんですよ。

 

それをフィル・スペクターなどの影響が大きいと思うのですが、スタジオでの編集やミックスによっても可能である事に気がついた人々が出てきて、その試行錯誤が、ロックを急激に発展させていく事になりますよね?


イーノの出現は、その、ビートルズビーチボーイズなどによるスタジオワークにおける凄まじいまでの編集、ミックスが前提としてありまして、イーノはその編集行為それ自体が作曲であろうし、アレンジなのだと気がついたんだどう思います。


そして、それは譜面や楽器の演奏能力などに依拠しない、ものにすらなっていたのではないでしょうか。

 

それは今日のパソコンですべて編集して音楽制作が可能となっている今日では最早当たり前の事なのでしょうけども、イーノの頭の中は、そんな考えが一般化していない時代に既にそのように考えていたのだと思います。


なので、基本的な演奏は自分で行い、自分にできない、あるいは、一定以上の演奏能力を要する部分を他のミュージシャンを起用して作っているというあり方で、すべてイーノのディレクションが一貫してあるという感じですね。


なので、常に音楽が俯瞰的です。


その俯瞰する能力はそのままプロデューサーなどとしての活動に直結しているわけですよね。


ドミューンという、ネットで配信されているライブ配信の草分け的な番組で、京都で行われているブライアン・イーノ展についての番組が配信されていたのを見ていたのですが、「イーノの音楽的ルーツはヴェルヴェット・アンダーグラウンドジョン・ケージですよね」と解説されていた方がいまして、ここで挙げられているソロ作品は、まさにイーノにとってのヴェルヴェット・アンダーグラウンドへのオマージュなんですよね。


敢えてのヘタウマな演奏は、もうほとんどヴェルヴェッツとしか言いようがないですし、結局、それが70年代後半以降のニューヨークで勃興したアンダーグラウンドな音楽とイーノが結びつく素地です。

 

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ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが後世に与えた影響は売り上げ枚数で測ることができない。チェコ大統領となる、ヴァーツラフ・ハヴェルにすら影響を与えたのだ。

 


イーノの音楽は、そういうものの先駆を成していて、そういうものに向かいながらも、当人は、『Music for Airport 』のような、空港で流れていたら、さぞ、心地よくなるのではないだろうか?という音楽を同時に作っていて、1つの事に決して夢中にならない人です。


イーノがものすごくギターが上手かったり、ヴォーカリストとして優れていたら、こんな風には絶対になっていかないですよね。


彼はジェフ・ベックのような演奏能力がそれほどあるわけでもないですし、バート・バカラックのような作曲、編曲能力もないわけですが、テクストを実に冷静に掴み出し、的確な場所に置く事やその場所そのものを設定する能力が優れているという、従来のミュージシャンとは全く違う能力を備えていたという事が、ミュージシャン/プロデューサーとして優れていたという事なのでしょうね。


それが、自宅のパソコンで音楽制作宅録可能な環境が当たり前になった事で、ようやくコモンセンスとして理解された。という事なのだと思います。


先程のドミューンで「イーノはジャズがキライなんだよね」という発言も、実に興味深いですよね。


イーノの批評力は、スタジオワークで発揮されるので、演奏でドンドンとバグや失敗、事故も引き受けながらその場で現在進行してしまう、とりわけ、ビバップ以降のモダンジャズとイーノの考え方は相いれません。

 

ジャズには、ジャズの批評能力というものはあると思うのですけども、流石に演奏それ自体による生成を否定するようなものではなく、演奏というものを通じてなされるという事が通常ですね。

 

そこにメスを入れたのがマイルズ・デイヴィスとテオ・マセーロでありましょうし、それを更に押し進めたのが菊地成孔であると言えると思います。

 

イーノは現場力でなんとかするのではなく、それはテクスト上で厳密に再現されている事が重要なのだと思います。

 


しかも、イーノはそれを楽譜のような形でテクスト化するのではなく、レコードというテクストにしているのが、きわめて20世紀的ですね。

 


この3作は、いずれもイーノの傑作ですが、どの作品もこれまで説明してきた事が当てはまり、つまり、これらはその意味で一貫した作品です。 


悪い意味ではなく、すべて同じアルバムと言ってもいいくらいで、それくらいイーノのコンセプトは明確であり、もう完成度が高いんですね。


基本は自分が演奏し、技術的に自分では難しいことや、そのミュージシャンの音が欲しいなどの理由で他のミュージシャンを起用すると言う作り方も3作ともに同じです。

 

その能力がそのままプロデューサーとして発揮され、70-80年代に爆発したのだと思います。

 

ほとんど戦後の小津安二郎のような鉄壁な統一感で作られたアルバム3作を是非聴いて見てください。

 

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ジャケットのアートワークも秀逸。